海外修業で築き上げた「神の手」

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HP用◎カバー+帯米田正始― 海外修業で築き上げた「神の手」

「ハートセンターの真骨頂はハードというより、ソフトにあるんです」
開院三年目を迎えた名古屋ハートセンターで副院長(心臓血管外科)を勤める米田正始は、その特徴をこう話す。

それは、彼が前任地である、母校・京都大学医学部の教授職を辞し、ここにたどり着いた一つの答えでもある。

神の手を持つ医師―。

治療が極めて困難な病気を治すことができる名医に対して贈られる称号だ。彼は京都大学病院時代、いくつかの「余命数カ月」の命を救い、そう呼ばれるようになった。
当然ながら、患者の中には熱狂的な支持者も多い。では、そんな「神の手」がなぜ京都を離れなくてはならなかったのか?

「神の手」は一朝一夕に築き上げられるものではない。若い時からオペレーターや助手として関わっていくことがとても大切なのだが、日本の心臓外科の世界ではそれが非常に困難であることは先に述べた通りである。国内で早い段階から「熟練度」を上げていくことなど、先の大川のような例をのぞき、まず無理だ。

では、米田はどうしたか? この閉鎖的な日本を飛び出し、海外で経験を積むことを決心する。卒後六年目にあたる一九八七年、カナダのトロント大学へと渡るのである。

「欧米でも、日本以外のアジア諸国でも、世界の一流の大学病院では、年に六〇〇から一〇〇〇例ぐらいの手術が普通にあるのです。だから、病院側としても、学生に対して『君には今年一〇〇例受け持ってもらうよ、ぼくがちゃんと見ているからしっかりやるんだよ』というような形で、修練のプログラムが組める。こうして五年間なら五年間、その場その場で技術レベルを確認しながらステップアップさせて、修了時には、例えば三〇〇例を執刀できますよ、という保証をつけてあげられるのです」

在任した六年間に九〇〇例を執刀。そればかりでなく、恩師のTirone Davidとともに、心筋梗塞の合併症である心室中隔穿孔(左室と右室を隔てる心室中隔に穴が開く病気)に有効な術式「David‐Komeda法」を考案・発表するなど、多くの成果を残した米田は、その後、米スタンフォード大学へ赴任。ここでは、主に教育と研究に専念する。

一九九六年には、豪メルボルン大学へ移り、主任外科医(助教授)として、わずか一年半の間に三〇〇例の手術に携わった米田は、オーストラリアでも有数の心臓外科医として知られるようになる。

海外に滞在すること十余年。気付けば、執刀一二〇〇例、アシスト等八〇〇〇例超という輝かしい実績を積み上げていた。

当然のことながら、母校の京都大学がこれを見逃すはずはなかった。一九九八年、米田は心臓血管外科の教授として凱旋を果たすことになる。

四二歳の若さで、なおかつ研究畑ではなく、臨床一筋の医師を教授に抜擢することは、当時としては異例中の異例だった。大学はそれほどまでに高く彼を評価したのである。

 

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