京都大学ESS

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京都大学ESS(English Speaking Society)は歴史のある、代々の部員の情熱に支えられた手作りの部という印象を持っています。私は大学の1回生の後半から3回生の途中までお世話になりました。ある先輩からこれからは海外で活躍すべき時代だから学生時代に英語を本気で勉強しておきなさい、と言われて、英会話学校よりも深く探求できそうな場を探しているうちに京大ESSに辿りつきました。

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私がお世 京大教養部A号館話になった1976年から1978年までの頃(かなり昔のことで恐縮です)は、まだ素朴な時代でした。教養部(現在の総合人間学部、吉田南構内)で吉田グラウンドの前にA号館という「回」の字型の大きな建物がありました。現在でいう吉田南総合館ですね。その「回」の中央部に木造2階建ての古びた戦前?の建物「中央館」が京大ESSの根拠地でした。

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根拠地と言ってもクラブBOX(部室)が認められていたわけではなく、ジプシー生活のクラブでしたが、それでも毎日昼休みにdaily practiceとしてSpoken American Englishを練習し、夕方にまた集まってはさまざまな活動をしていました。

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当時の活動は大きくわけて Debate(ディベート、テーマを決めてチーム同士で議論しその内容を競うことで問題の理解を深め解決策を図る知的ゲーム)、Drama(ドラマ、英語劇で当時の府立勤労会館でにぎやかに公演しました)、Discussion(テーマを決めて議論する、フォーマルとインフォーマルがある)、Speech(時間内で内容と説得力のあるスピーチをし、そのレベルを競う)などがあり、京大ESSの特徴はやりたい人はどれをどれだけやっても良いという utility playerとして自由参加ができたことです。まだ小規模のクラブであったためもあるのでしょう、やる気のある人はかなり没頭できる体制でした。

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夢中で何でもこなしたように思います。やりすぎてご迷惑をかけたことを今、反省しています。その後、昔の仲間が集まる機会が多少はあり、楽しくうれしいことです。

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この京大ESSで学んだことはその後の人生で大変役立ちました。英語それも考察し、ディスカッションし目的を達成していく英語とは、海外留学でさまざまな課題をクリアーしながら心臓手術の腕を磨き、研究業績を上げていく過程で必要不可欠ともいえるものでした。それを学ばせてくれた京大ESSとその先輩・仲間たちには今なお深く感謝しています。

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それ以上に有意義であったのは他学部に友人が持てたことです。せっかく立派な総合大学に行っても、全学の人たちと交流する機会が持てないというのではあまりに寂しくもったいない、当時からそう思っていましたが、振り返って京大ESSの経験はじつに貴重なものでした。

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最近の京大ESSの雰囲気は詳しくは存じません。しかしあの活気、仲間が集まれば何でもできる、良いものを努力と工夫でどんどん造っていける、そして想いは世界へ、そのような若者ならではの夢のある活気が今も根付いていることを信じています。

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京大ESSの現役諸君とOBの皆様、またお会いできるときを楽しみにしております。

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平成26年8月4日

米田正始 拝

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執筆:米田 正始
福田総合病院心臓センター長 仁泉会病院心臓外科部長
医学博士 心臓血管外科専門医 心臓血管外科指導医
元・京都大学医学部教授
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大和成和病院

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大和成和病院は以前からある地域貢献型の病院で、現理事長の金公一先生が着実に育て南淵先生てこられたと聞くが、現在の本格的循環器病院としては1996年に南淵明宏先生(現院長)が着任され、金先生―南淵先生の体制が確立してから大きな発展を遂げたようである。

大和成和病院それからの大和成和病院の展開ぶりは目を見張るものがあり、年々心臓手術数を増やし、2008年、ついに冠動脈バイパス手術で日本一の座についた。南淵先生の実力やそれを支えた倉田篤先生の貢献、あるいは小坂眞一先生・藤崎浩行先生・武藤康司先生、深津より子看護師長をはじめとしたコメディカルや事務をはじめとしたチームの力量によるところが大きい。同時に大和成和病院の発展・展開は日本の心臓血管外科医療をとりまく環境の構造的変化と軌を一にしているように思える。

かつて心臓血管外科は大学病院やいわゆる基幹病院と言われるその地域を代表する総合 病院でスタートしたケースが多かった。1960年代から1970年代にかけてのことである。しかしこれらの施設は小回りが効かず、患者救命のためにはminute countつまり一刻を争う心臓血管外科には不利な面を内包していた。とくに大学病院のなかには労働組合と公務員制度の両方に遠慮してその後もこの問題を解決できずにいる施設が少なくない。若い医師は患者さんを治す実力をつける勉強をすべきです。しかし病院によっては雑用係にされてしまっているという現実があります

いわく、

手術日以外は手術できない、

手術日でも一日一例に限る、

一日に規定数を超えて入院はさせない、

午後5時になれば手術中でもナースが帰宅する、

緊急手術ができる場合でも待機手術一例を延期せよ、

夜間の薬局への使い走りやポータブルレントゲン撮影などの雑用は若手医師がやらねばならない、

手術が続けば麻酔医やナースが疲労して辞めてしまう、

他の科も我慢しているのに心臓外科だけ我慢が足りない、、などの逸話がよく聞かれた。

患者中心とは名ばかりで、本質は勤労者中心であるわけである。ちなみに1980年代に大きく成長した徳洲会が循環器内科と心臓血管外科を医療改革のターゲット領域としたのは、大学病院や基幹病院が最も苦手とする領域であったからと言われる。

医療を問い直す、新しい動きがでてきましたそうした旧制度から脱皮できない施設群を横目に、自由度の高い私的病院が心臓血管外科領域では1980年代から1990年代にかけて大きな展開を遂げた。

新東京病院、北海道大野病院、岸和田徳洲会病院、湘南鎌倉病院―葉山ハートセンター、豊橋ハートセンター、新葛飾病院、川崎幸病院そして大和成和病院などの新しい施設群である。

1970年代あたりまでは人工心肺装置が高価で、モニター類、人工呼吸器等も同様であったためサイズの小さい私的病院には重荷であったようだが、その後それらは比較的コストダウンできるようになり、むしろいつでも手術できるという小回りの良さと患者さん・紹介医の高い満足度、組合や公務員制度の制約が少なく、天下りがなく無用な出費が不要という効率の良さがキーになる時代に私的病院が展開したともいえよう。

著者は縁あって大和成和病院に2007年春から約1年間、半常勤ながら仕事をさせて頂いた。現在もスーパーバイザーとして関与させて戴いているが、その経験から大和成和病院を少し論じてみたい。

まず南淵先生をはじめとした心臓外科医の手術成績が良く、コメディカルの意識や熟練度も患者さんを治す、この一点に集中した努力ができるのは民間専門病院の良さです 優れている。そして病院職員の患者さんへの対応が温かい。さらに医療を行う立場からは仕事がしやすい。医学的に必要な手術はいつでもできる。麻酔科もナース・コメディカルも心臓治療にいのちをかけたプロの集まりであり、必要な手術を邪魔する人はいない。もちろん使えるリソースは有限であるため、ときに相談し、調整することもあるが、原則として患者中心が貫けるのである。

また適正サイズのため、院内のコミュニケーションが図りやすい。医師も看護師も技師も熟練度が高く、循環器診療に精通しており、普段からインテリジェントターミナルのように的確に動いてくれる。

著者(米田正始)の印象に残っているエピソードをひとつ紹介したい。

2007年の年末に術前左室駆出率 手術前は心臓がほとんど動きませんでした。でも患者さんやご家族、そしてチーム全員で頑張りました0%(シンプソン法での精密計算上、本当にゼロだった)の虚血性心筋症の若者(写真左、左室がほとんど動いていないのが見える)に新しい左室形成術を施行させて頂いた。

関東の一流施設でも手術を断られた患者だったが幸い治療戦略が功を奏し、チーム医療が有効に作用し、術後経過順調で左室駆出率も40%まで回復していた。不整脈もほとんどなく安定していた。

ところが術後しばらくして患者が面会の友人たちと病棟談話室で談笑中に前ぶれなく突然VF(心室細動、3分以内に解決しないと命にかかわる)になった。その瞬間、著者は仕事を終えて新幹線にて京都に帰りつつあるところだった。VF発症のあとの大和成和病院チームの迅速的確な治療ぶりはまさに循環器病院の名にふさわしい見事なものであった。

著者が翌朝一番で大和成和にもどった時にはすでに患者は危機を脱し回復途上にあった。このチーム力のお陰で患者はなんらの後遺症も残さず、元気に退院して行った。現在も元気に暮らしている。こうしたことがチーム熟練度の低いタイプの大学病院や基幹病院でどれだけできるだろうか、とも思った。

 

このように大和成和病院は現代の心臓血管外科医療を行うにはもっとも適した環境のひとつであり、冠動脈バイパス手術の例数が昨年日本一に輝いたのはうなづけることである。著者はその後名古屋ハートセンターの開設のため仕事場のほとんどを名古屋に移すことになったが、現在も大和成和病院のシステムを大いに参考にさせて頂いている。この優れた病院が今後も立派な手術・治療を展開し、この国の循環器医療の進歩に貢献して頂ければ幸いである。

2009.10.記

 

その後、大和成和病院では人事異動があり、南淵先生は東京ハートセンターへ移られ、代わって小坂先生が院長としてカムバックし、倉田先生が中心の手術チームが編成された。順天堂大学から若くとも手術のうまい菊地先生が入られ、若手が若干名参入し、新たなチームができあがった。益々の展開を期待したい。

 

 

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豊橋ハートセンター

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鈴木孝彦先生豊橋ハートセンターは約10年前、当時国立病院豊橋東病院循環器科で活躍して大川育秀先生おられた鈴木孝彦先生(写真左)が、

同病院心臓血管外科で名を上げておられた大川育秀先生(写真右)および製薬会社にて勤務しておられた白川洋之さんと協力し、

心臓病治療のための患者中心かつ本物の専門施設をという共通の夢をもって開設された専門病院である。

当初は19床のクリニックサイズでスタートし、次第に発展拡大し、現在60余床の、この国を代表する心臓専門病院へと成長して行った。

 

豊橋ハートセンター著者(米田正始)は京都大学病院に勤務していたころから時折この豊橋ハートセンター(写真左)へお邪魔し、何度かライブ心臓手術などをやらせて頂いたが、

そのころから忙しくても仕事のしやすい病院、医師としての喜びを満たせる病院(つまり患者さんに必要な治療を必要な時にだれに遠慮することもなく実施できるという喜び)という印象を持っていた。

 

2007年春からこの豊橋ハートセンターで非常勤ながらスーパーバイザーとして仕事をさせてハートセンターは忙しくてもやりがいがあります頂くようになり、

京大病院を去る2007年9月から半常勤の形でより積極的に関与させて戴いた。

個々のスタッフの熟練度の高さ、優秀さ、プロ意識、仕事量、喜びと明るさは、すべて、国立の施設にいた人間にとっては眼からうろこの連続であった。

自分も含めて国立の施設の職員は給料どろぼうではないかとさえ思ったほどであった。

さらに私の関係で京都や大阪からはるばる豊橋まで来院して下さる患者さんの多くが、

遠いところまで来た甲斐があった、ここは素晴らしい病院ですと言って下さり(「患者さんの声」のページをご参照下さい)、ますますこれまでの怠惰を反省する始末であった。

 

もちろん厳しい医療費抑制政策の中で、

民間施設が公的資金の援助なしで立派に運営し、24時間365日体制で患者さんを守ることの経営上の大変さも学ぶことができた。

 

名古屋ハートセンターその豊橋ハートセンターがさらなる発展を期して大都会名古屋と元来のサポーターの多い岐阜に進出するという話をお聞きし、願ってもないことと、参画させて戴くことになったのが2008年であった。

著者は縁あって名古屋ハートセンター(写真左)担当となったが、

現在も豊橋との交流を密にもち、開設時のスピリットを忘れないように心がけると同時に、

その壁を破り、新しい時代の都会の高度専門診療を加味できればと思うこの頃である。豊橋ハートの女サムライです。実力派です

 

豊橋ハートセンターのサムライですこの6月に豊橋ハートセンター10周年の記念式典が豊橋にて行われた。

親戚のような立場で参加して、懐かしい仲間との旧交を温めることができた。

個人的に最も感動したのは豊橋ハートセンター開設時からのサムライ職員全員が壇上に立たれた時だった。

最後にものを言うのは人材の質、とくに技(わざ)と心(こころ)であり、こうしたサムライがいることが豊橋ハートセンターを群を抜く存在にしたということを実感した。

医療崩壊を起こしている施設とは反対の状況がそこにあった。

またそうした人材を育てられた鈴木先生や大川先生らの力量と御苦労に感嘆した。

 

ハートセンターグループのルーツである豊橋ハートセンターが今後も充実発展することを楽しみにするものである。

 

2009年9月記

追記: 20 Cameraroll-1323102669.27103612年4月から米田正始は3センター心臓外科の統括部長として豊橋ハートセンターでも仕事をしております。

手術は主に名古屋にて行っておりますが、適宜豊橋でも行うことが可能です。

ポートアクセス法などのミックス手術、複雑な僧帽弁形成術大動脈弁形成術、あるいは左室形成術などでお役に立てれば幸いです。

 

 

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天理よろづ相談所病院 ――医師の基盤を与えて戴いた

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天理よろづ相談所病院(以下、天理病院)は奈良県天理市にある基幹総合病院である。

詳しくはそのHPをご参照戴きたいがここではそこで6年あまり研修・修練させていただいた者としての観点および一人の奈良県民の視点から述べてみたい。

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天理病院は奈良県民にとってはいわば憧れの病院であり、奈良県生まれの著者も医学生になる前から将来は天理病院で勉強してみたいと思っていた。

診療所の時代まで含めれば長い歴史のある病院だが、現在の基幹病院としての態勢と規模は1960年代に出来上がった。

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当時としては循環器内科や呼吸器内科をはじめ臓器別内科を持つ高度な病院で、奈良県民の間では東洋一天理病院の本体部分。ユニークな形をしていますという誇らしい評判をよく聞いた。

心臓血管外科もまた同様で、ヘリで重症患者さんを遠方から搬送し手術するという、当時としては離れ業をやって世間の評価は一段と上がった。

当時から天理病院から全国の大学の教授になっていく方は多く、それも病院の信頼を一層高めていたと言われる。

同時に天理病院は「憩いの家」の愛称が示すように、宗教の良さを活かした全人医療が行われていたのも先進的であった。

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当時著者が感心したのは病院内の空気が他宗教に対して極めて寛大で、それどころか他宗教の患者さんがさみしい思いをしないように気遣ってさえいたことである。

患者中心というのは多くの公的病院でもお題目のように語られるキーワードだが、実際には勤労者中心つまり患者は二の次というのが実態である病院が少なくない。

天理病院はその点でも看板に偽りなしであった。

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天理病院がさらなる飛躍を遂げたのは1970年代にレジデント制度(研修医制度)が誕生してからと思われる。

卒後1-2年のジュニアレジデント研修(初期研修)では、今中孝信先生という熱い指導者のもとで甲子園球児のような心構えで毎日朝から(翌)朝まで努力していたような印象がある。

これが現在の我が国の初期研修の魁となったと言われる。

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天理病院のレジデント研修では情熱と自分の足腰を駆使して様々な部門を走りまわればどんな複雑な疾患や問題を持つ患者でも最良の方策が見出せるという、患者を軸に据えた問題解決の経験を積めたことが大きな収穫だった。

その一方、それほど悪くなくとも怒られるという我慢教育は少々辛かったが、今思えば重要なことを教えて頂いたと納得できる。

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褒めるだけでは若い先生方への参考にならないと思われるため、自分の視点から天理病院の研修制度の弱点をあえて記載すれば、それは初期研修の2年間は技術習得がやや遅いということであろうか。

ただ初期研修は目先のテクニックを学ぶことよりも医師としての基本姿勢を学ぶことの方がはるかに重要であるし、技術習得環境もその後改善されているのかもしれない。

また個人の努力でかなりカバーできるところは当時からあった。

要は心構えと努力の継続、そしてそれを容易ならしめる人間関係(広義の問題解決能力)ということかもしれない。

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当時、大変お世話になった院長の柏原貞夫先生は、いつも叱咤激励をして下さり、感謝に絶えなかった。ある日、酒の席でこう言われて私は倒れそうになった。「天理には飲む場所がない、飲む時間もない、そもそも飲む必要がない」。若い間はこれぐらい本気で修練するのが良いのだと感心した。

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シニアレジデント研修(後期研修)では心臓血管外科専門のコースを進み、多くを学ばせて頂いた。

ジュニア・シニアレジデント時代を通じてもっとも感心したのは、そこにいる先輩・同輩・後輩とも、誰にも頼らず自分の腕で立派に生きているプロ根性にあふれた臨床医の集まりであったことである。

後年、結果的に大勢の人たちが時代の要請に応える形で大学教授に栄転して行ったのが自然なことのように感じられる。

制度の良さもさることながら、そこでの出会いがその後の人生に大きな意味を持ったと思われる。

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現在の天理よろづ相談所病院も活発と聞くが、その内部の空気を著者は知らない。

当時の熱さが息づいていれば幸いである。

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京都大学医学部心臓血管外科 ――優れた研究機関

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京都大学医学部(京都大学病院)心臓血管外科では1998年から2007年までの約10年間教授として勤務した。

教授および一人の外科医の視点からこの施設を振り返ってみた。

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教授の守備範囲は臨床・研究・教育とそれぞれに関連して医学部や病院全体のさまざまな仕事や約30ある関連病院のサポートその他多岐にわたった。
京都大学医学部および付属病院は研究とくに実験研究をやるには極めて恵まれた環境であった。

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基礎医学、内科系、外科系の教室をはじめ、再生医工学研究所や理学部・工学部さらには他大学やセンター研究部門との連携が容易で、

さまざまな方法論、材料、経験を活用させていただき、単に大学院生が医学博士号を取得するための研究にとどまらず、心臓血管外科の新しい治療法とくに術式を開発したり、検証するという方向性の研究が多数できた。

この10年弱で約180本近い英語論文それも臨床または臨床に近いものを仕上げることができた。臨床主体の方針からは過剰達成と思えるほどの業績となった。

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教育では現在の研修制度がまだ実施される以前のことで、多数の学生や研修医が学内はもとより全国から参加し賑やかで夢のある時代であった。

学生の海外病院実習では150名以上の諸君を欧米豪の大学病院で学んで戴くことができた。

学生時代にしっかり指導やお世話をすれば卒業後、入局してくれる人が多いという素朴な時代で、毎年平均8名の研修医が京大を含めた全国の大学から京都に参集してくれた。

この数字は心臓血管外科のような少数精鋭の科では突出して大きなものと言われた。

彼らはまもなく全国の関連施設へ赴任して行き、医師・外科医として活躍し腕を磨いて行った。

多数の仲間の活躍のおかげて京都大学心臓血管外科同門会は発展し、年間4000例(全国の約10%)の開心術を行い、結果的に10名の教授を輩出した。

もともと教授職に関心のない臨床人が多かったことを考えるとこれは意外に大きな数だったかも知れない。

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臨床は研究と比べるとかなり回しづらいところで、症例数を約2倍弱に増やし、通常例をほぼ全例元気にし、重症例を一人でも多く救命するのが精一杯で、

病棟・ICU・手術室・麻酔科その他さまざまな制約を解決できず、社会・患者さんへの貢献や教室員の教育の観点から考えた目標数の半分にも届かなかった。

当初から京都大学病院で多数の心臓手術をすることは難しいというのが京大病院内外での大方の意見・忠告であり、常識的にも結果的にもそのとおりであった。

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独立行政法人化が手術数を倍増させる基盤を造ると予測し、実際そのようになった大学病院は旧帝大にも複数あるが、京大病院ではそのような方向性が生まれなかったのは著者の読み違いであった。

ある腕利きの心臓外科医が言われた。「先生、京都大学(病院)はやはり研究機関ですよ」。

研究機関でしっかり臨床をやろうとするのは場違い、それが結論なのだろう。

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新研修制度に関連したメジャー科離れや国公立病院に顕著にみられる医療崩壊、あるいは医学博士や専門医への社会的評価の逆転現象、さらには若手医師の人生観の変化から大学病院の位置づけに揺れが見られる。

大学を離れた臨床現場の盛り上がりをみて、一層それを感じる。

海外の大学病院で見られるように本来大学病院は研究のみならず臨床の実力をつけるためにも重要拠点であり、大切な役割を持った病院であるべきなのであるが。

ただしこうしたジレンマは心臓外科に比較的特異的であり、研究主体の領域の方々には大学は住み心地良い場であるため共感も理解も得にくいと考えられた。

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個人的には、より改良洗練した手術でより多数の患者を救うには循環器専門施設とくに足腰が強く理解も深い私立病院、あるいはそうした方向性を持てる専門施設がこの国ではやはり適していると考えるこの頃であるし、数字はそれを物語っている。

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ともあれ私立の専門施設の良さが本当に理解できるのは、国立大学病院で10年間努力した賜物であり、若手中堅の先生方の行く末だけはまだまだ心配だが、私自身については多くを学べた点で大学病院での努力と経験は無駄ではなかったと思うのである。

ある優秀な医局員がかつて言ってくれた言葉にそれが凝縮されている。「関連病院では心臓外科を学べたが、京大病院では人生を学べました(苦笑)」。

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追記:

その後、京大病院はどうであろうか。

さまざまな事故がその後も起こり、2011年には肺移植や肝移植で死亡事故が起こっている。

大変遺憾なことである。

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しかしかつて京大病院で滅私奉公で医学医療や母校の発展を願い毎週90時間以上仕事し、臨床に力を入れたものとして残念なのは、何か事故が起これば、医師にその解決を押し付けて解決としていることである。少なくともそのように聞いているし医師専用サイトにそうした書き込みが多数なされている。

たとえば透析や血液浄化の回路組み立てを素人同然の若手医師に義務づけたり、ベンチレーターの回路交換を医師が行うことでナースの協力をとりつけたり、世界の標準からはおよそ考えられない形で「解決」が図られていることである。

こうしたルーチンワークこそ熟練コメディカルがチーム全体の責任と検証のもとで行うべきもので、医師はたとえ頭脳は明晰でも熟練度はゼロに近く、まして大学病院では毎年のようにメンバーが変わるため、熟練度の維持ができないのである。

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ちなみに民間専門病院では熟練コメディカルがすべてやってくれて、医師はチェックしたり意見を聴くだけで安全なルーチンができている。これは世界の標準と言える姿である。

労働組合や公務員気質におもねらない、患者中心の、世界に誇れる道を歩んでほしいと思うのは私だけではないのだが、ますますずれて行っているように見える。

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その上、事故のたびに警察署に届け出るのは一見潔いことだが、現実には刑事事件として扱われることとなり、現場で直接関与した人たちが送検されたり、運が悪ければ起訴されるのである。

たとえ事故がシステムエラーであっても刑事事件では現場の個人の罪となるのが決まりなのである。大学病院のこうした現状を聞くにつれ、ただ残念に思うのである。

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メルボルン大学 心臓血管外科―素晴らしい環境

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メルボルン大学はオーストラリアのビクトリア州メルボルンにある国立大学で、オーストラリアでも屈指の実力と地位を持つ大学である。

Brian_barratt_boyes バラットボエス先生心臓外科・心臓血管外科の領域でもメルボルン大学は健闘しており、大学病院としてロイヤルメルボルン病院、王立メルボルンこども病院、オースチン病院その他があり、欧米に比肩する実力を持っている。

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オーストラリアとニュージーランドは心臓外科(Sir Brian Barratt Boyes、写真左)と免疫学(Barnet)等で世界をリードして来た実績がある。

著者が1996年秋から1998年春にかけて留学したメルボルン大学オースチン病院は、オーストラリアで初の心臓血管外科教授である Dr. Brian F. Buxtonが率いる病院であった。

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Buxton先生のライフワークである動脈グラフトを多用した冠動脈バイパス手術を中心に、弁膜症から大動脈まで幅広く手術・治療を展開していた。

著者にとってBuxton先生やDr. MatalanisらとともにConsultant (豪州の正規スタッフ外科医)として臨床や研究に従事できたのは幸いであった。

Buxton先生(写真右)は欧米豪でライセンスを取って活躍した経歴を持つ、国際派の心臓外科医であBuxtonバクストン先生った。

さりげなく淡々と行う手術の質は高く、スピードが違う。

豪州の制度を活用して、public病院であるオースチン病院とprivate病院であるイップワース病院を駆使して、多数の手術を行い、また経済的にもリッチであった。

インドネシアの富豪が手術のためにオースチンに多数来院され、それも病院を潤わせていたようである。

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ある時、緊急手術でインドネシアの大富豪が飛行機をチャーター来られ、空港の税関に私が通過許可をお願いする電話をしたとき、書類を見るとご婦人確か8名とお子さんたしか30名を乗せているのを知って驚いた。

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メルボルン大学オースチン病院(写真右下)は心臓外科医にとって極めて仕事のしやすい環境で、緊急手術は心臓外科専門のチームが常に短時間で召集できる体制ができている。

緊急手術を行っても予定手術には影響なく実施できる。

麻酔科は心臓麻酔医が担当し、熟練度が極めて高い。

午後7時より遅く開始した緊急手術にはコンサルタント、レジストラ、ナース、MEそれぞれの立場に応じてかなりの手当がつき、皆医療のやりがいと経済的楽しみをもって頑張っている。

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あるとき術前患者が発熱して延期になった。

そのとき、ナースたちのご意見は「先生、別の患者さんを連れて来て!手術しようよー」であった。

それほど彼女らの仕事は評価され、きちんとした待遇が与えられているのである。

あれから15年近く経ったが日本の貧相な環境は国公立病院を中心にほとんど変わらないのは残念である。

 .最近のオースチン病院を空から見る

ある年のクリスマスの時期に、夜中から緊急手術を行い、明け方に無事完了した。

さあ帰宅 しようかというところへ別の緊急手術患者が来られ、せっかくだからもう一例やってから帰るよと皆に告げると”You are my hero !!”とナースらに言って頂いた。

日本の一部の大学病院なら皆にお詫びしまくってお願い連呼して申し訳なさそうな顔をして手術するところであろうが、豪州では違うのである。

本物の先進国をそこに見た思いがした。院内に置いてある機械類はそれほど変わらない。

そうしたハードよりももっと先進国らしい尊いものがあることをこのとき学んだ。

日本は医療崩壊しないと先進国の姿を学べないのであろうか。

大学病院で言えば、海外の臨床現場を知るものがもっと教授になれば少しは変化するのであろうが、現実はどうであろう。

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メルボルン大学の他病院との交流も盛んで、そのそれぞれから欧米に多数が留学し、メルボルンにいても著者の古巣であるトロントやスタンフォードの話もでき、世界とつながっているという実感が楽しかった。

個人的には1年あまりの間に300例の開心術執刀や指導ができ、その後日本(京都)に帰国したのが悔やまれるほどの日々であった。

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ともあれ、メルボルン大学、オースチン病院は、建物の外見は日本の大学病院より質素だが、内容的には遥かに充実した、先進国の大学病院の名に値する素晴らしい病院であった。

それ以後も多数の医学生や修練医をお世話し、みな多くを学んで帰国してくれているのはうれしいことである。

今年(2009年)も名古屋の学生一人を紹介し、多くを学んで帰国してくれるのを楽しみにしている。

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オースチン病院のような優れたものを日本で構築するとすれば、それは実験研究偏重で公務員制度と労働組合の壁がある国立大学病院の中よりも、ハートセンターのような自由度の高い施設ではないかと思うこのごろである。

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スタンフォード大学心臓外科―アメリカ屈指のアカデミック心臓外科

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スタンフォード大学はアメリカ合衆国でもトップレベルにランクされる有力大学である。

心臓外科、心臓血管外科の領域においてもスタンフォード大学は同様の実績と評価を得ている。

ここでは一留学生(筆者)としての目からみたスタンフォード大学心臓外科を論じてみたい。

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Norman E. Shumway先生。世界の心臓移植のパイオニアです。スタンフォード大学心臓外科(肺でも有名なため心臓胸部外科)の名を世界にとどろかせたのはNorman E. Shumway (写真左)であった。

彼は心臓移植の草創期、まだ拒絶反応を克服できなかった時代に多くの仕事を行った。

あまりに慎重なスタンスから心臓移植一番乗りには縁がなかった。

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しかし、大動物での実験研究のノウハウ蓄積は抜群で、その後臨床での心移植の実績を着実に上げ、拒絶反応のために多くの施設が心移植を断念した時代にも生き残り、サイクロスポリン等の実用化の道を拓き、現在の標準治療としての心臓移植の確立に貢献した。

彼こそ心移植のパイオニアと評価する方が多いのはそうした良心をもつ実力派だからであろう。

図10

Miller研究室での集まり。ここから全米に教授を輩出して行きました

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著者が留学した1993-1996年ごろもDr. Shumwayは健在で、多くの後進の指導に力を入れ、彼と仕事をすること自体が dream come trueと言う若手が多かった。

底抜けに明るく、不撓不屈の信念をもつShumwayを慕って集まったのがスタンフォード大学心臓グループと言っても過言ではなかった。

当時Shumwayのもと、Dr. Bruce A Reitz、Dr. D Craig Miller、Dr. Ed Stinson、Dr. P. Oyer、Dr. Scott Mitchell、Dr. Bobby Robbinsはじめ多数の優れた心臓胸部外科医が育ち、活躍していた。

Dr. Shumwayは暇さえあればジョークを飛ばしていたのが印象的だった。

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Bruce_ReitzDr. Bruce A. Reitz (写真左)はこれ以上紳士的な指導者はいないと思えるほどの人格者で、手術の腕もさることながら教育マインドでもとびぬけたものがあった。

著者が当時、日本の医学生の夏季実習のお世話をしていたときも、Dr. Reitzは忙しい時間を割いて

図6

スタンフォードから世界に多くを発信できました。当時最強の心臓外科生理学チームと言われました

自らその学生たちに胸部X線の読影法を教えたり、多数のレジデントや元レジデントの指導から就職の世話までいつも笑顔でこなす姿はある種の神のようであった。

お掃除のおばさん達までがDr. Reitzは立派な人だと言っていたのが印象的であった。

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D Craig Miller先生。アメリカ胸部外科学会にて。Dr. Miller (写真左)は大動脈手術の臨床と心臓生理学の実験研究で有名な外科医だが、院内ポストには頓着なく、Dr. Reitzと何ら競合することなく、自分の道を淡々と歩む、どちらかと言えば哲学者のような心臓血管外科医であった。

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Dr. Millerの心臓生理学ラボ(研究室)は生理学にもとづく心臓のねじれ運動の解析を行っていた。

その方法論は虚血性僧帽弁閉鎖不全症の外科治療に最適と見た著者が、ス 図24タンフォードのMillerラボへ留学し、虚血性僧帽弁閉鎖不全症への弁形成術に役立つジオメトリーの研究を始めて以来、このテーマがお家芸となり、現在に至るのは光栄な限りである。

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臨床ではとくに大動脈手術基部再建などに力を入れていた。

Dr. Millerに究極のアカデミック外科医の姿を見るのは著者だけではないと思われる。

さらにその時代つまり1990年ごろからDr. Mitchellや放射線科Dr. DakeのステントグラフトEVAR)が大きな業績を上げ、日本を含めた世界とのコラボの中で育って行ったことは記憶に新しい。

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ハートポートポートアクセス法手術、MICS手術の代表例です)を開発したのもスタンフォードチームであった。

図7

誰もが感心する優れた環境、それがスタンフォードでした。

初めて大動物実験に成功したときの喜びと感動はアメリカという国にまだフロンティア精神が残っていることを示すものと著者には思われた。

これだけのことを今から20年も前にすでに臨床の場で患者さんに役立てていたというのは、今振り返っても感嘆すべき先進性である。

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こうした優れた心臓血管外科医、心臓胸部外科医を擁するスタンフォード大学心臓胸部外科の大所高所からの特長は、Dr. Shumway以来の心臓移植、心肺移植と臨床教育システム、研究教育システムであろう。

すべての症例をレジデントに執刀させる、これは重症例が多く、社会的責任が重い現代、容易なことではない。

図25

学内でサッカーのワールドカップを開催するようなパワフルな大学でした

そこにひとつのAmerican spirit、Stanford spiritのようなものを感じ、強い憧れを覚える。

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またスタンフォードのレジデントたちは忙しく充実した臨床の中を、夜中には研究室に来てひたすら書き、多数の論文をメジャージャーナルに出し続ける、これを実行し続けて、全米各地あるいは世界各地へ戻って教授になっている。

この姿にももうひとつの Stanford spirit を感じずにはいられなかった。

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執筆:米田 正始
福田総合病院心臓センター長 仁泉会病院心臓外科部長
医学博士 心臓血管外科専門医 心臓血管外科指導医
元・京都大学医学部教授
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トロント大学 心臓血管外科―心に火をつけてくれた感動の日々

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トロント大学はカナダ屈指の総合大学で、心臓血管外科も北米のリーダー的な存在のひとつとなっている。

ここでは一留学生(当時)の視点から、6年あまりの間、内側から見たトロント大学心臓血管外科をご紹介したい。

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Bigelow_b歴史的には心臓外科のパイオニアの一人であるDr. Wilfred Bigelow(写真左)が低体温をもちいた心臓手術を開発するところにルーツがある。

Dr. Bigelowの著作 “Cold Heart (冷たい心臓、つまり低体温の心臓手術法)”は知る人ぞ知る歴史的作品。

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その後トロント大学心臓血管外科からは Dr. Ronald BairdやDr. Bernard Goldman、Dr. Hugh Scullyらを輩出し、その後Dr. Tirone E. DavidやDr. Richard D. Weiselらの活躍で新たな黄金時代を築いた。

著者(米田正始)が留学した1997年から2003年にかけてはDr. DavidやDr. Weiselが大きく展開する時期で、個人的に大変多くを学ばせて頂いた。

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David_2Dr. David(写真左)は天才肌の心臓外科医で、無駄のない確実で迅速な手術は当時から話題になっ ていた。

Dr. Davidはcreative mindにも長けた外科医で、数多くの新たな術式の発表と優れた治療成績でトロント大学心臓外科全体の指導者になって行った。

著者も数件のプロジェクトに参加させていただき、それまで治せなかった患者さんを新手術で治せるようになるという外科医の究極の喜びを何度も味あわせて頂いた。

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大動脈弁を温存する大動脈基部再建いわゆるデービッド手術心室中隔穿孔に対する梗塞除外法(David-Komeda法などと呼んで戴けるのは望外の光栄である)

図14

トロントで修行中のころ。6年間お世話になったナース諸君は皆優秀で親切でした

 

あるいは感染性心内膜炎とくに弁輪膿瘍に対する弁輪再建さらにさまざまな僧帽弁形成術など、

トロントで関与したプロジェクトは数多いが、心臓外科の真骨頂ともいえる素晴らしい経験だった。

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Weisel4036Dr. Weisel(写真右)は研究のチャンピオンで実験研究と臨床研究を恐ろしいほどのスピードでこなして いた。

そこで学んだことは論文書きもさることながら、リサーチのマインドや姿勢、さらに他人を垣根なく受け容れお世話し仲間の輪を広げるスタンスだった。

Dr. Weisel は研究中心とは言っても年間300例の開心術をこなす心臓外科医であったのは欧米の大学の素晴らしさを雄弁に物語るものであろう。

図16

AHAで発表のころ。成果をどんどん発信し仲間が増えて行きました

そしてDr. Weiselは多数の執刀機会を与えてくれた教育者でもあった。

Dr. Davidがアート中心ならDr. Weiselはサイエンス中心といったところであろうか。

アートとサイエンスを同時に学べるトロント総合病院は本当に恵まれた環境であった。

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Scully3426Dr. Scully(写真左)は政治的手腕にも長けた心臓血管外科医で、空手の黒帯でもあり、寡黙にして冷静沈着な手術をする先生であった。

いったん信頼関係ができると、重症でも緊急でも任せてくれる太っ腹な外科医であった。

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それ以外にもDr. Irving LiptonやDr. Linda Mickleborough、Dr. Christopher Feindelなど腕利きの心臓外科医が活躍していた。

図26

毎日貴重な経験の積み重ねでした。48時間ぶっ通しで仕事してもなお楽しかった頃

 

個人的な経験としては上記の心臓外科医の先生方の御厚意により、合計900例の開心術の執刀を経験でき、その証明書まで書いて頂いた。

感謝以外の言葉はない。

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トロント大学心臓血管外科としては当初からToronto General Hospitalが主軸となり、これにSt. Michael’s Hospital とToronto Western Hospitalが加わり、トロントこども病院と合わせて4本柱の形で相互に連携協力して発展してきた。

1990年初頭に病院の再統合が行われ、Toronto Western Hospital が Toronto General Hospitalに吸収され一本化し、St Michael’s Hospitalはそのままで、新たにSunnybrook Medical Centerが開設され、トロントこども病院と合わせて新たな4本柱になった。Tgh_5toronto

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現在のToronto General Hospitalでは当時ジュニアレジデントや学生として著者が指導ある いは一緒に遊んだ仲間がスタッフ外科医(教授・准教授)として活躍しており(Dr. Terrence Yau、Dr. RJ Cusimamo、Dr. Vivek Raoら)、今も楽しい集まりが毎年ある第二の故郷である。

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2010年にDr. Scullyが定年退官され賑やかなパーティを行った。著者にとっても久しぶりに懐かしい方々とお会いできて楽しかった。またDr. Weiselも臨床を引退され、時代の変遷を感じさせる。

最近のTGHの状況は 心臓外科医の日記ブログ 古巣トロントで をご参照下さい。
20年ぶりに1週間トロントにて充電させて頂いた。

あのころの感動やエネルギーが心の中で蘇ったと言っても過言ではない、心が躍る1週間だった。

図19

あの充実と感動を次世代を担う若手にも提供したい

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このトロント大学には過去から現在に至るまで日本の若手を多数紹介し、同じ夢や楽しみ、生きがいを共有できるのを嬉しく思っている。若い先生方のなかで、我と思わん方は私までご連絡いただきたい。

また、こうした施設を日本の中に造りたいという夢を追うことができるのを喜びと感じている。

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執筆:米田 正始
福田総合病院心臓センター長 仁泉会病院心臓外科部長
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元・京都大学医学部教授
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プロフィール―より良い心臓手術や治療をあくまで探究します

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最終更新日 2024年9月27日

世界水準の医療も日々の反省と研鑽とチームワークから

紹介文 Profile (運営者情報)

米田 正始 (こめだ まさし)
医学博士 心臓血管外科専門医 心臓血管外科指導医

Masashi KOMEDA, M.D.,Ph.D.

ウェブサイト: https://www.shinzougekashujutsu.com/

メールアドレス: zeek-m@bf7.so-net.ne.jp

本ホームページの内容はすべて米田正始の責任執筆です。内容はEBMつまり根拠に基づく医学のデータを用いていますが、先進的治療でまだEBMデータが一般化していないものについては自身や内外先進施設の最新データを使用しています。

スタンフォード留学中にミラー(D Craig Miller)教授らとご一緒に

福田総合病院 心臓センター長

〒573-1178 大阪府枚方市渚西1丁目18−11
電話:072-847-5752(代表)

詳細はこちら

略歴

1955年2月2日
奈良県生まれ
1973年
東大寺学園高校 卒業

高校時代を過ごした校舎です。若者らしい、熱い仲間が多く勉強になりました。
この校舎は今はもう残っておらず、そこには東大寺の博物館があります

1981年
京都大学医学部医学科専門課程 卒業
京都大学ESSについて)

旧解剖学講堂です。
明治時代の雰囲気を残しています。
ここで勉強していた頃を想いだします
クラスメートや先輩後輩たちは志の高い、かつ優秀な人ぞろいで学ぶことが山ほどありました

1981-1983年
財団法人天理よろづ相談所病院(レジデント(研修医))
1983-1987年
財団法人天理よろづ相談所病院(シニアレジデント・心臓血管外科上級研修医)
1987年
財団法人天理よろづ相談所病院(心臓血管外科医員)
大変パワーのあるチームで研修・勉強から遊び心まで学ぶことができました。三木成仁先生(故人)をリーダーとし、楠原健嗣先生、上田裕一先生、松本雅彦先生(故人)、大北裕先生、田畑隆文先生、神野君夫先生らがおられ、その後も荻野均先生、山中一朗先生、湊谷謙司先生らが修練されました。後年、そのチームから多数の大学教授を輩出したことが、今思えばごく自然なことのように思えます。

天理病院の当時のメインの建物です。ここでシニアレジデント研修を受けました。
外見は歌舞伎座中華風などと呼ばれても中身は充実していました。
ジュニアレジデントつまり初期研修はこの建物の裏側にある別館病棟で受けました。当時の仲間は野武士のような良さをもった実力派が多く生きる知恵を頂きました。また手作り感抜群の問題解決型・一貫研修はユニークで学ぶものが多くありました。今中孝信先生、小泉俊三先生はじめ多くの先生方には大変お世話になりました。

1987-1989年
トロント大学トロント西病院(心臓血管外科上級医員)留学 Toronto Western Hospital, University of Toronto (mentor: Prof. Tirone E. David)

当時のトロント西病院のメインの建物です。
著者の部屋は一番高いタワーのすぐ下にある建物にありオンタリオ湖がきれいに一望できました。見るもの聞くものすべてが勉強になり夢のような充実した日々でした。
心臓血管外科は年間1000例をこなす優れた病院で、まもなくトロント総合病院と合併・移転しました

我が恩師Dr. David。
サンフランシスコでのウェットラボにて、中央はスタンフォード大学での仲間であるDr. Glassonです。

1990-1993年
トロント大学トロント総合病院(心臓外科上級医員)留学  Toronto General Hospital, University of Toronto  (Prof. Tirone E David) (picture above)
年間2000例以上の心臓手術を行い、研究でも恵まれた素晴らしい環境でした。心行くまで仕事に没頭させていただきました。

当時のトロント総合病院の全景です。オンタリオ州会議事堂近くから撮った写真です。右手遠景に見えるのがトロントこども病院です。

1993-1996年
スタンフォード大学<医学部メディカルセンター(上級研究員)留学
Stanford Medical Center

当時のメディカルセンターの正面入り口手前の噴水です。
京都市街の大半がはいるほど巨大なキャンパスの中にある大きな病院で南欧風の開放的な雰囲気でした
臨床と研究と教育のいずれでも抜きんでた施設でした

1996-1998年
メルボルン大学 医学部心臓血管外科 主任外科医 (Staff Surgeon) 助教授
Austin Hospital, University of Melbourne (Consultant, Senior Associate) (Prof. Brian F Buxton) (picture above)

当時のオースチン病院のメインの建物です。
山城のような構造で山の斜面に多くの建物が立っていました。落ち着いた雰囲気でどこか心温まるものがありました。病院機能には光るものがあり、いつでもどんな心臓手術にも即応できました。

1998-2007年
京都大学医学部心臓血管外科教授
Kyoto University Hospital, Cardiovascular Surgery, Professor and Chairman

当時の京大病院の全景です。
新外来棟ができ、まだ旧外来棟が残っている時期のものです。
10年近い間お世話になり、さまざまな手術実績や業績を上げることができました。断らない医療と心臓血管手術をもっとやりたく、下記へ転じました。

2007年-2013年
豊橋ハートセンター・大和成和病院 心臓血管外科スーパーバイザー

豊橋ハートです。断らない医療の実践と心臓手術や治療はもちろん、民間病院とくに専門施設のあり方や運営、指導者の姿まで勉強できました。まもなく名古屋ハートの立ち上げに仲間と巣立って行きました。

2008年ー2013年
名古屋ハートセンター副院長兼心臓血管外科統括部長
Vice president & chief CV surgeon, Nagoya Heart Center (picutre left)

ゼロから立ち上げた名古屋ハートでしたが、多くの方々のご支援をいただき、5年間で愛知県屈指といわれる心臓手術の施設に成長しました。年老いた両親と過ごす時間をもつために郷里奈良に帰ることになりました。皆様ありがとうございました。

2013年―2015年
高の原中央病院かんさいハートセンター特任院長、ハートセンター長、心臓血管外科部長
Project president, Director of Kansai Heart Center, and Chief CV Surgeon
郷里で新しいハートセンターの立ち上げを試み、開心術と大血管手術で初年度150例を達成しました。地方の小さい民間病院でハイリスクの大手術は手控えようという方針になり断らない医療ができなくなったため撤収いたしました。
関係の皆様に感謝申し上げます。

心臓手術執刀中 (撮影: 其田益成 氏)

2015年―2024年
仁泉会病院 心臓血管外科部長(兼任)
Director of the Department of Cardiovascular Surgery and Chief CV Surgeon, Jinsenkai Hosp.
2015年―2016年
野崎徳洲会病院 心臓血管外科 スーパーバイザー
Director/Supervisor, Department of Cardiovascular Surgery,
The Heart Center, Nozaki Tokusyukai Hosp.
短い間でしたが助っ人として安全管理の強化と手術治療成績の大幅な改善を達成し、学会専門委員からも高評価を頂きました。あわせて心臓血管外科専門医制度の基幹施設にも認定され、ミッションを果たしました。現場の皆さんありがとう、できればこの成果を守ってください

心臓血管外科外来を担当し、全国から患者さんにお越し頂けるようになりました。病院の方針で心臓外科外来はそのまま福田総合病院に移転しました。伊泊理事長以下現場の皆様には10年近い間お世話になり、本当にありがとうございました。

2016年―2020年
ホロニクスグループ・医誠会病院 心臓センター スーパーバイザー
Supervisor, Department of Cardiovascular Surgery,
Heart Center, Iseikai Hospital
2020年ー現在
福田総合病院 心臓センター長
Director, Heart Center, Fukuda General Hospital
地域医療で高い評価を受けている病院で大きな役割を頂きました。断らない医療を実践しています。心臓手術は一宮西病院(スーパーバイザー)、昭和大学横浜北部病院 (客員教授)はじめ実績のある連携病院群で続けることができ、感謝申し上げます。

下町の地域医療と透析医療から発展してきた病院で、心臓外科は「下町ロケット」を目標に頑張りました。多くの仲間たちに支えられ拡張型心筋症、肥大型心筋症、MICSの弁形成などで世界に発信することができました。谷幸治理事長ありがとうございました。心臓外科チームは全員新天地で頑張り、研究会なども続けています。

その他

2007年―現在
マルファンネットワークジャパン(MNJ) 医療アドバイザー
何でもご相談ください
2010年ー現在
All About (オールアバウト) ガイド(心臓血管血液の病気)
心臓病知識の普及に努めています
2013年ー現在
NHK文化センター(名古屋京都大阪梅田神戸)講師
病院では言いにくいこと、聞きづらいことでも遠慮なくどうぞ。
2007年ー現在
患者さんの会  年2-3回、心臓手術後の患者さんたちのための健康講座を開いています。詳細はこちらを。
最近忙しく、疲れがでて時たましかやっていません。その分上記のNHK文化センター講演やメール相談や、もちろん適宜外来をご活用ください

趣味

写真

ご指導ください。カメラ遍歴はキャノンペリックス、EF、 T90、コンデジ各種、EOS50D、現在は EOS7D MkII。

詳細はこちら

ネコ

ネコを6匹(家の中に3匹、外に3匹)飼っていました

ゴルフ

コンペの時だけコースにでる怠け者ゴルファー。ハンデのおかげで優勝歴2回。奈良国際ゴルフ倶楽部のメンバーになりました。たまにしか行きませんが一緒にどうですか

水泳

平泳ぎと背泳のみ クロールは勉強中

読書

マンガ愛好  美味しんぼ、医龍、永遠のゼロ、ブラックジャック、ドラゴン桜、ゴルフは気持ち、ジャングル大帝、横山光輝の歴史もの

音楽

いろいろ iPodに数万曲入れています。クラシックは3B(バッハ、ベートーベン、ブラームス)、ポップス色々特にビートルズ、和製ポップス(シティポップス系)その他。

糖質制限食ダイエットとサプリのおたく

他人様を痩せさせるのが好き。NPO法人日本ローカーボ食研究会の理事もやっています。

専門医、学会役員等(含、歴任)

  • 日本胸部外科学会認定医
  • 日本胸部外科学会指導医
  • 日本外科学会認定医
  • 日本外科学会専門医
  • 三学会構成心臓血管外科専門医認定機構心臓血管外科専門医・修練指導医
  • 米国胸部外科学会(AATS)会員 member
  • 米国臨床胸部外科医会(STS)会員 member
  • ヨーロッパ心臓胸部外科学会(EACTS)会員 member
  • アジア心臓胸部外科学会(ASCVS)会員・理事 member, manager
  • アジア弁膜症アカデミー(Mulu弁膜症国際シンポジウム) 理事 faculty 、第9回国際シンポジウム会長(2018年11月於・京都)
  • 日本冠疾患学会 理事歴任、名誉会員
  • 日本冠動脈外科学会 理事・監事
  • 日本低侵襲心臓手術学会(旧Japan MICS Summit) 世話人(理事)
  • 日本心臓血管外科学会 理事歴任、特別会員

客員教授、非常勤講師など(兼任、歴任)

  • 神戸大学医学部大学院非常勤講師
  • 岡山大学医学部大学院非常勤講師
  • 中国・大連大学医学院附属中心医院客員教授
  • 中国人民解放軍第二軍医大学客座教授
  • 中国天津医科大学・泰達国際心臓血管病院客員教授
  • 昭和大学客員教授(横浜市北部病院)

大連中心医院にて手術中

業績

社会活動

京大教授時代に10名の同門外科医を各地の大学で教授になるお手伝いをさせて戴きました。京大退官後も6名の元弟子が教授選出されました。

同、151名の医学生を海外(アメリカ、カナダ、フランス、豪州など)の大学病院で臨床実習する支援を行いました。

100名を超える若手医師の海外臨床留学(カナダ、オーストラリア、アメリカ、フランス、イタリア、マレーシア、ニュージーランド、ベトナム)のお世話をして来ました。

本HP、オールアバウト、節約社長、NHK文化センター、メディアなどで一般の方々の健康増進、病気予防、早期発見から治療までの啓蒙活動を行っています

ベトナム共和国ホーチミン市にあるチョーライ病院に心臓血管外科を2000年に立ち上げました。
同科は発展を続け現在は年間1200例以上の開心術を行う一流ユニットに成長しています。

参考

心臓手術のお問い合わせはこちら患者さんの声はこちら
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執筆:米田 正始
福田総合病院心臓センター長 仁泉会病院心臓外科部長
医学博士 心臓血管外科専門医 心臓血管外科指導医
元・京都大学医学部教授
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